誰が苦で誰が幸福か
誰が苦で誰が幸福か
ブッダは『最高に短く言えば、執着のある五蘊が苦である』と言っています。もしそうなら、「五蘊が苦でもそれが何なの。私たちが苦しまなければいいんじゃないの」という疑問が生じます。パーリ語経典の別の所には、『苦は本当にあるが、苦である人はいない』とあります。これも同じです。自分自身は無いと説明しています。苦は形(身体)と名(心)にあります。これも、私たちは最高に努力しているのに、どうして苦になるのか、という疑問を生みます。
苦の所有者である自分がいないのに、誰のために努力するのでしょうか。誰が苦を受け取り、誰のために善や布施をするのでしょうか。一人一人が自分自身で(タンマは個人のものなので)この問題を考えて壊すためです。ここでみなさんがこれを熟慮して、自身自身の智慧で明らかにするために、そして自分のタンマの実践に関する疑いや、ためらいから生じる心の憂鬱や重さが軽くなる、短いけれど広く考える、次のようなヒントを差し上げます。
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体と心の二種類を合わせてナーマルーパ(名形。名色)と言います。五つに分けたときは五蘊と呼びます。この身体と心の中に執着があると、つまり「私の」「私」とこだわっている分だけ、あらゆる苦が、生老病死から始まって憂鬱、その他の凶悪なもの、たとえば望んでも望みどおりにならないなどの苦があります。
そしてその威力が焼き炙って、体と心を苦しめます。しかし心に執着が無くなれば、その人は「私がある」「これは私のもの」と理解しません。あるいは感じません。今述べたすべての苦も残らず心から抜け落ちてしまいます。なぜならこの体と心を自分のものと、そしてそこに生じるものを、本当に自分のものと受け入れないからです。
しかし自分で気づかないだけで、本性の中に無明がある分だけ、「私」あるいは「私のもの」という理解が、本性の中に潜んでいるということを知っておかなければなりません。だから私たちは、自分で気づかずに、すべての苦を自分のものと受け入れるので、まだ無明や執着がある間は自分があると言うことができます。なぜなら(私たちが感じ、本性で執着している)自分は、無明によって作られたものだからです。無明が無くなれば、自分はありません。
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無明、あるいは愚かさが無くなれば、「自分」は消滅し、「私」という感覚は本性の中にありません。行動する人、あるいは何かを受け取る人がいないので、苦はありません。本当は、当然の成り行きで生じて、変化して、消滅する名形(心身。名色)しかありません。それを苦と呼ぶだけです。
私たちの本性の中の無明(又は心身)が、「名形(心身。名色)は私」という感覚を生じさせます。そして苦になるために、あるいは自然に存在する名形(心身。名色)のすべての苦を受け取るために「私」が生まれます。ブッダには「本当の私はない。無明によって作られた自分がいるだけだ」と見えたので、『苦は本当にあるが、苦しむ人はいない』、あるいは『まだ執着のある五蘊が苦の本体である』と言いました。
私たちが「苦しんでいる人がいる」、つまり「自分がいる」と感じているものは、私たちの愚かさが作り上げました。だから「私」は、愚かさがある所だけにいます。仏教の最高の哲学は、「本当には私はいない」と明らかに見えるように考えさせ、この真実を見せています。
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もし本当は自分がないなら、なぜ滅苦のために必死でタンマの実践を行なうのだ、と質問する人がいるかもしれません。これには、冒頭で述べた言葉で答えることができます。つまり、いま私たちに「自分がない」という感覚があるでしょうか。私たちはまだバカが治っていないバカのように愚かなので、自分がバカだと気付きません。だから愚かさによって作られた「自分」があります。それが苦の所有者であり、そして気づかずに「自分」、あるいは「自分のもの」と執着している自分です。
だから愚かさをなくし、執着をなくし、苦をなくすために、仏教の教えに従ってしなければなりません。そうすれば自分で「自分というのは、本当にはない」と知ることができます。名形は、自分のために七転八倒しています。愚かさによって「私」を作り、自分の中に入れます。作られた「私」とは、今この本を読んでいる「私」です。
苦や楽は本当にありますが、苦しむ人、あるいは幸福な人である「本当の私」jはいません。いるのは無知によって作られた「私」です。「私」を無くしてしまえば苦と楽から脱出します。そのような状態を涅槃と言います。「涅槃は最高の幸福」と言うのは、私たちが理解しているような幸福ではなく、「私」が消滅したことから生じる幸福でなければなりません。そして昔からよく知っている種類の苦楽から脱すことです。
涅槃がどんな味かは、あなたが到達した時、自分で知ることができます。それは話して理解できるものではありません。だからパッチャッタン(自分だけのもの)、あるいはサンディティコ(成就した人自身で見られるもの)と言います。
涅槃には「知る人」はいません。幸福の味を味わう人はいません。通過した、あるいは外へ出てしまったからです。知る人や味わう人がいて、まだその味を喜んでいれば、本当に苦の終わりである涅槃ではありません。非常に幸福で、そしてどんなに望ましくても、それはただの涅槃への門にすぎません。
しかしその状態になれば、涅槃は確実です。まだ名形(心身。名色)があり、涅槃から流れてくる冷静さを味わう義務を行なうことができれば、その後は執着、あるいは無明の住処ではありません。私はそれを涅槃の状態と言います。その名形(心身)が跡形もなく消滅したら、それが涅槃です。誰が苦しむ人で誰が幸福な人かは、あなたの気に入ったように判断してください。しかしこれを読んでいる自分は、まだ無明の自分だと自覚できなければなりません。
1936年8月1日
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